普遍は凡庸に、特殊は深い洞察に…

大澤真幸の『文明の内なる衝突』(NHKブックス,2002)を読み終えた。ベットの横に置いて、寝る直前にぱらぱら読み続け、読み終えるまで一週間以上かかった様な気がする。最初の部分はほぼ忘れてしまった。なんとも、まあ、非効率的な読書であることか。それでも、一応引用したい所を引用しておくことにしよう。引用したいと思ったところは、第三者の審級への従属なしには「深い洞察」をも不可能だ、という妙な、かつ説得力のある内容のところである。どうやら、もともとはジジェクの『汝の兆候を楽しめ』にて主張されたことであるらしい。

ハーバーマスは、討議の領域を汚染する、そうした「特殊な偏倚」をひとつずつ自覚し、除去していけば、やがて、まったくゆがみのない合理的な討議の場が開かれる、と見なしている。だが、特殊に偏った独断的な前提―第三者の審級に発する権威的な命令―を失ってしまえば、合理的な判断が得られるところか、われわれは、判断そのものを失うことになるだろう。

 この点に関する理論的な探求に深入りすることはやめておきたい。ここでは、有意味な判断を得るためには、むしろ、独断的で(特殊で)権威的な前提が必要だということを暗示する事例を、ジジェクから借用することで満足しておこう(『汝の兆候を楽しめ』)。それは、人文的な学問における、マルクスフロイト、さらに最近ではラカンのテクストの役割に関するものである。

 これらのテクストは、しばしば「聖典」のように、つまり聖書やクルアーンのように読まれている。それらは、批判を超越した、「真理」の書として扱われてきたのだ。だから、有意味な命題が、これらのテクストの解釈として提示されたりする。これらのテクストの聖なる価値に特に惹かれてはいない第三者から見ると、こうしたやり方は、いささか滑稽にすら見える。「マルクスが言っているからといって、それが何だ。」というわけである。『資本論』や『夢判断』に書いてあることを論拠にしているということは、何ら、その主張の正当性を保障するものではない。

 だから、マルクス主義者や精神分析学者の中から、ときに、マルクスフロイトに対して、「科学的」に開かれた態度をとろうとする者たちが出てくることもある。つまり、マルクスフロイトのテクストも外の社会科学や心理学のテクストと同列に扱って、批判的な討議の対象にするのだ。いわば、コミュニケーションを歪めていた、非合理的な前提を除去しよう、というのである。だが、マルクス主義精神分析をめぐる学問史の中で示された、最大の驚くべき事実は、こうした開かれた姿勢によって得られる結果、つまりマルクスフロイトのテクストを科学的な検証や反証を受け付ける命題群として扱ったときに得られる結論は、常に、まったく退屈で取るにたらない、ということである。マルクスフロイトのテクストに教条主義的に拘泥する者の方が、はるかに深い洞察に到達してきたのだ。p199~200