蓮實、「解釈の無限連鎖」を生き抜く?

1.

今日は、スガ秀美が編集した本『1968』(作品社、2005)に載っている座談会「「一九六八年」とはなんだった/何であるのか」で蓮實重彦が話した内容の一部を引用することにしたい。

ポストモダンシニシズムにつける薬はないと思います。好きなようにやらせておくしかない。ポストマルクス主義的な運動の多様な「共存」でも何でもよいのですが、一元的な「党」の消滅 −それは、「神は死んだ」でも「作者の死」でも同じことだと思いますが− は、あらゆることを可能にしたと同時に、すべては不可能だという事態にも直面させたわけで、可能性と不可能性の間に宙づりされた時間 −それを「現在」と読んでもいいわけですが− をどう耐えるかがモダンなシニシズムで、これを避けることは誰にでもできない。そうした時代としての「近代」は、まだ終わっていないばかりか、たえずいま始まったばかりだとさえいえると思います。ところが、ポストモダニズム特有のシニカルな主体は、その多くが可能性と不可能性とを何とか調和させようとしてパラドクシカルなフィクションをつむぎだそうとする。そのパラドックスを「止揚」するものが「党」だとは思えません。私は、それを「仮死の祭典」に貢献しうる匿名化された主体と考えます。本来が不可能性の開示にほかならぬ解釈の無限連鎖を可能性の開示と勘違いすることのない、批評的な主体といいかえてもよい。解釈の無限連鎖を可能性の開示としか考えない連中は、単なるバカである。 −p50

2.

可能性と不可能性の間に宙づりされた時間を耐え続ける(モダンなシニシズム)という運命を、想像的(フィクショナル)に回避し、あたかも<象徴界第三者の審級大きな物語>の衰退を「すべてが可能な状況」として受け止めようとするのが、どうやら蓮實のいう「ポストモダニズム的主体」のようだ。蓮實によると、そのようなポストモダンな主体は「解釈の無限連鎖」という現象を「可能性の開示」として読み取ってしまう「バカ」でしかない。一方、同じ「解釈の無限連鎖」が実は「不可能性の開示」であるという現実認識に基づき、批評的な眼差しで現実と関わる主体は「匿名化された主体」と呼ばれる「批評的な主体」である。

蓮實のこの発言は、大澤真幸東浩紀の現状認識と多くを共有しているように思われてならない。

「解釈の無限連鎖が実は不可能性の開示」である、というのは大澤真幸が「自由の牢獄」で論じたパラドックス(過剰な自由は、人間にとって「自由の牢獄」として経験されてしまう、というパラドックス)と非常に似ているのではないだろうか。あるいは、後期資本主義の状況は、人間の自我にして無限のメタ運動を強いる、という東浩紀ポストモダン分析にも直結している。さらに、「匿名化された主体」と非常に似た概念(「匿名の主体」だったかな?)を東浩紀がよく使っているようだが、これも気になる。

3.

ともかく、蓮實重彦は「バカの啓蒙」には、はなから関心がないらしい。それが、彼の魅力であると同時に、どこか「あきらめ気味」と捉えられてしまう所でもあろう。あるいは、「批評的な主体」たらんとすることからの当然の帰結なのかも。モダンなシニシズムに立つ主体であるのなら、「バカの共同体」を啓蒙するのは不毛である、という冷徹な現実認識を欠いて振舞うわけにはいかない、ということ?

しかし、蓮實に魅せられ続けるのは事実で、安易に、蓮實が紡ぎ出す言葉の連鎖にフィクショナルに同化したい欲望を感じてしまう。