超近代の自己反省性

「超近代」が要求する自己反省の強度に、人間は耐えうるか?


 最近読んだ佐藤俊樹の『ノイマンの夢・近代の欲望』を本棚に仕舞い込むのが、どうしてか心残りで、無意識の命令に従い、軽く読み返した。そして、最後の章の「超(ハイパー)近代」に関する内容を読んで、「これを読み落としたのか!」と無意識の判断の正しさに打ちのめされてしまった。


最後の章では、近代産業社会を19世紀型(以下<1>)と21世紀型(以下<2>)に分けて説明している。佐藤によると、近代産業社会を通底する大原則は<近代的な個人の自由選択―自己責任の原則>である。言い換えれば、不確定的な未来に対する判断(選択)を個人に委ね、その代わり不確定性に起因するリスクをも個人に帰するものとすることで、社会の資源を配分していく仕組みが近代産業社会なのである。基本的にリベラリズム的な立場に立った近代の定義といえよう。


ただ、実際の近代の歴史は、個人と巨大組織との対立の歴史であり、巨大組織(権力)が個人を無力な存在にしてしまったとき、近代自体が危機に陥ったと佐藤は言っている。この主張にちょっと首を傾げてしまった。佐藤は近代的な個人の誕生をフーコーで説明しているが、実際にフーコーが彼の理論をとおして解体しようとしたのは、佐藤が言ったような(個人と権力組織を対立するものとしてみる)近代的エピステーメーだったのではないか?むしろフーコーは個人と組織を対立関係としてではなく、「共犯関係」として捉えていると思うのだが。フーコーと佐藤との立場は、その意味で、かなりずれがあると思う。
 

佐藤の<1>と<2>の説明に戻ろう。<2>は<選択の自由―自己責任>の原則をより「純化」する傾向を持っており、そのため<2>は近代産業社会の延長線上にある社会である(佐藤は「原近代の再生」という概念を用いている)。しかし、<2>は<1>とは異なる一面をもっている。それが<超近代性=近代社会のしくみそのものを反省するような視線>である。超近代的な個人たちは、頻繁に自分自身を相対化し、反省の対象として位置づける作業をし続けてしまうのである。佐藤はこの傾向を「強い反省性」と呼んでいるが、このような後期近代の捉え方は、イギリスの社会学者Anthony Giddensが論じた「再帰的近代」と非常に似ている。ともかく<1>は「原近代」だけをその特徴としているが、<2>は「原近代」と「超近代」の特徴を併せ持っている、というのが佐藤の認識である。


 超近代の「自己反省性」を理解するうえで、参照項として有効なのが、資本主義の運動における「外」から「内」への転換である。<1>の資本主義は「外へ外へと無限に拡大」する運動をしていた。帝国主義=植民地化の歴史がそれを証明している。一方、<2>の資本主義は「有界な空間内部で無限運動をつづけていく社会」である。即ち、<2>は自己差異化運動で機能可能な社会なので、終わりなき自己相対化=自己反省=自己差異化を個人は演じ続けるわけである。


このような論理展開は、柄谷行人が『マルクス、その可能性の中心』で論じた資本主義の運動形態と同型のものである。柄谷は『マルクス』で、商業資本主義から産業資本主義への移行を、「空間の差異」から「時間の差異」への移行として説明している。つまり、商業資本主義はAという共同体とBという共同体との間の価値体系の差から利益を得ることで機能するものである反面、産業資本主義はAという共同体の「今」の価値体系と「未来」の価値体系の差から利益を得ることで機能する、というのである。20世紀のフォーディズムは「消費者」を前景化することで資本主義の有り方を変えたが、これはまさしく「時間の差異」に基づく資本主義への転換を意味する。一方、ポスト・フォーディズムは生産形態を少品種大量生産から多品種少量生産に変えることを意味しているが、「消費者」に合わせた生産、という面ではフォーディズムの延長線上にあり、よってポスト・フォーディズムも「時間の差異」を利用する資本主義運動であることには変わりない。


 もとの話に戻ろう。佐藤の<1>から<2>への移行は、柄谷の「空間から時間へ」の移行と基本的に同じ構造をもっていると言える。ただ、この移行を「自己反省性」(Giddensの「再帰性」)と結びつけたことが興味深かったし、説得力があった。

最後にもう一つ、未来の不確定性の如何が社会の在り方を変える、という主張も注目に値する。これは、柄谷が「時間の差異化」を産業資本主義の運動として捉えたこととも、緊密な関係があるように思われる。佐藤は、未来がある程度確定的にわかっている場合は、「テクノクラシーがうまくいく」と論じながら、これを、テクノクラシーが後発近代社会において有効に機能した理由にもしている。なるほど、と感じた部分である。確かに、歴史的事実は、この主張に頷かせる所が多いのではないだろうか。一方、佐藤によると、先発近代社会に追いつくにつれて個人の自由の選択―自由責任の原則の必要性がましていく。未来の予見が不可能な状況では特定の誰かに選択をゆだねることは非合理的であるからだ。そのため、次のような結論に達することとなる。

不確定な未来を生きる状況では、個人個人の選択の結果としてそのリスクを分配するしかない。 -p237

そのため、常にリスクの計算を強いられる状況に置かれた「超近代」の個人は、終わりの無い自己相対化=自己反省をし続ける存在、「メタ自己」を生き続ける存在になる ― 佐藤の論理の帰結はこれである。しかし、この終わりなき「メタ自己」の運動に現代人が耐えられなくなる、という可能性は、ここにおいて論外にされていると言わざるを得ない。東浩紀が問題にしている「動物化」とは、「メタ自己」であることを諦めてしまう超近代の現状だと思うのだが。人間は「合理的存在」である、という前提のうえに構築されたリベラリズムは、人間の動物化=非合理的存在化の現実を説明しえないのであろう。


 もう一つ、佐藤は「蓋然性の高い未来」と「不確定な未来」を区別し、どのような未来をその社会が描いているかによって、組織と個人の力関係が変動する、という興味深い指摘をしているが、これはリオタールのいう「大きな物語」と「小さな物語」に対応するのではなかろうか。「大きな物語の機能不全に、人間はどう対処するか?」現代思想は、この30年間、この問題と戦い続けてきたと思うが、佐藤は人間の忍耐力を高く評価しすぎているように見えなくもない。