文脈の解体―高橋源一郎

無限に近い因果関係のネットワークとして存在し続ける世界と、限定された認知能力と限られた情報処理速度と等身大の行動手段でもって向き合わなければならない人間は「物語」に依拠して世界をマッピングせざるを得ない。そして、そのマッピングの技術は物理的にも記号的にも社会的な枠組みの中で提示される。小説というジャンルは、そのような社会的枠組みの一種といえよう。高橋源一郎の次のような文章を読んで、考えたことだ。

高橋源一郎「文学はどこに向かっているのか」『小説トリッパー2006年 秋』

 古井由吉さんが指摘しているように、「内向の世代」ぐらいからでしょうか、簡単にいうと「父殺し」をしなくなった。抑圧されると思うと、するりと身をかわす。縦軸の対立構図がなくなってしまったわけです。そういう人たちは、のちにどうなるかというと、やはり下の世代を抑圧しない。  
 「内向の世代」以降の作者は、マッピングしようにも、自分の位置を決める「原点」がなくなった。原点とは、「純文学中心主義」と「強い父親の存在」といっていいでしょう。これがすなわち文学における近代主義ですね。それがある時期から失調し始めた。−7頁 

 「ポスト近代」という言葉はありましたが、それを実現していると思える、九〇年代以降に出てきた作品は、とりあえず先行する何ものとも似ていません。あるいは、とんでもないものと似ている。いきなり樋口一葉と似ているとか、つまり任意のものと似てしまう。任意の何かとつながるということは、適当につながる、ということです。したがって、ほとんどの作品は適当にできあがっていく。そこには、「歴史性」が欠けています。
 大江健三郎でも中上健次でも第三の新人でも、「作品が適当にできあがっている」ということはなかった。対抗すべき相手がいて、そうではないものをつくるためにはどうするか、と考えられてつくられたものです。今、次々と現れる書き手の胸の中に、鮮烈で明快なモチーフがあるでしょうか。では、彼らはどうしているかというと、歴史は既にないから適当に過去からなにかを選び取ってくるだけです。 −8頁 

 

 歴史とはフィクションです。−10頁 我々は誰も、ほんとうの歴史を知りません。物語になった歴史しか消化できないのです。
 というのも、歴史とは、ほんとう世界で起こっている出来事の総体であって、とうてい個人が理解できるものではないからです。 
 だから、我々はその無限に近い出来事の一部をピックアップし、何かの文脈に従って読むことにします。それこそが歴史というわけです。
 歴史という言葉でわかりにくいなら、文脈という言葉でもかまいません。
何かを読む、という時、我々は、素直に目の前に書かれた文字を読んでいるわけではありません。小説は、たとえばその国や時代に流通する観念に潤色されています。映画やテレビや新聞は、事実や情報を伝えるのではなく、ある文脈に依存した物語を伝えるのです。
 唯一の救いは、いまや文脈そのものが、つまり近代という文脈が終わりを告げようとしていることです。 −11ページ