ジジェク

ジジェク『斜めから見る』

この分類はかなり興味深い!


主体のリビドー経済における段階 = 資本主義社会の形態 (192頁)
 口唇的段階 = プロテスタント倫理の「自律的な」人間
 肛門的段階 = 他律的な「組織人間」
 男根的段階 = 今日支配的な「病的ナルシシスト




<上は下の文を要約したもの>


 「プロテスタント倫理の衰退」と「組織人間」の出現、つまり個人的責任という倫理が、他者のほうを向いた他律的人間の倫理に取って代わられても、その底にある自我理想の枠は無傷のままだ(中略)。変わるのはその内容だけで、自我理想は、その個人が属する社会集団の期待として「外在化」される。道徳的満足をあたえてくれるのは、もはや、周囲の圧力に屈せず、自分自身に(つまり父性的自我理想に)忠実でありつつけたという感覚ではなく、集団への忠誠心である。主体は集団の目を通して自分を見るようになり、集団から愛され評価されるような人間になろうと必死になる。
 第三段階は、すなわち「病的ナルシシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドであり、彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者として経験する。もちろん、こういったことはすべて社会心理学ではすでに常識の部類に属する。だが、たいてい見過ごされているのは、自我理想の崩壊は必然的に「母なる」超自我の出現を招くということである。母なる超自我は享楽を禁じない。それどころか、享楽を押し付け、「社会的失敗」を耐え難い自己破壊的な不安によって、はるかに残酷で厳しい方法で罰する。「父親の権威の失墜」をめぐる騒々しい議論はすべて、それとは比べ物にならないくらい抑圧的なこの審級の復活を隠蔽するにすぎない。今日の「寛容な」社会は、「組織人間」、つまり官僚制の脅迫的な召使の時代よりも「抑圧」が少なくなったわけではけっしてない。唯一の違いは、「社会的交渉の規制への服従を要求しつつ、その規則を道徳的行動の掟に根づかせることを拒む社会」においては、つまり自我理想においては、社会的要求は非情で処罰的な超自我の形をとるということである。(192~193頁)