パイロット

記憶は、意識に属するものであるよりは、意識の外部から潜入してくるものであるらしい。それらの多くは意識の流れの「内容」として現前するが、それ以前に意識の流れ自体を方向付ける力として作用しているように感じられる。多分、実体的な観点からすれば、記憶は、世界と自我との間の広々としたグレーゾーンを占有している雑多な液状の物事の一構成因子である。


一方、運動的な観点からすれば、記憶とは、「時間」という人間の概念枠を秩序付ける力と言えよう。人間においては「未来」さえも記憶によって形作られる。どのような記憶を引き出すか=排除するか、或いは、どのような記憶が引き出されるか=排除されるか ― これが自我の思い描く未来の姿を決定する。その意味で、記憶は単なる「過去」の再来ではなく、「可能世界」を創出する力でもある。いうまでもなく、「可能世界」とは、「未来」や「自由」という概念を従えている、より上位の審級に位置する概念である。


 フロイトは記憶の追想から一群の法則を導くが、それはあくまでも「事後的に構成」されたものであり、言い換えれば解釈の結果なのであって、本当に法則があるかどうかは、物自体と同じく、知りようが無い。もし、記憶が意識の水面上に浮上する事態に法則があるのならば、それこそ、「可能世界」を作り出す法則である、といえよう。


 記憶の空洞化に抗い、直接性が訴える感覚の瀕死を免れ、皮膚に伝わる現実感とそれと連動する観念のダイナミックを再生するため、自らの記憶世界を彷徨う旅を始めようと思う。この旅は、論理に従うものではないが、だからと言って非論理を追究するものでもない。即ち、あらかじめ定まった旅の方法や到達点は存在しない。強いて言えば、「旅」という運動自体が目標であろう。さあ、抽象的な言葉の連想はこれぐらいにして、記憶の動きに自我を任せてはいかが?




 線路が見える。それは、地平線に向かって左斜めの方向に走っている。太陽は眩しく、正面の遥か遠くに見える黄色い山々以外はすべて砂漠に覆い尽くされた空間だ。右の上空から左へと、飛行機が飛んでいく。これは僕が直接経験した記憶でないことは確かだ。空間の構図、線路の方向、飛行機の高さ。その要素要素はどこかで別度に経験したものかもしれない。しかし、その要素の総体としてのこのイメージ全体は、決して僕の記憶ではない。これは要素を結合する運動の産物である。おっと、まった。このような演繹や抽象化はできるだけ排除し、イメージの流れに身を任せようじゃないか。「作り出されるイメージ」と「記憶」との関連をどう定義するか、という問題が浮上するわけだが、この種の思考も今のところはストップさせておこう。


 本が見える。褐色のハードカバーだ。昔風のカバーで、表紙に金色の二重線で枠が掘ってある。表紙には何の字も書かれていない。本を手に持って、縦にしてみると、これは辞書のようだ。項目を探しやすくするために、指の端の大きさの半月型の凹がある。日本語がちょっと変だって?しかたない。勉強不足への言い訳にしかならないだろうが、外国人だから、そこの所は勘弁してくれ。ともかく、辞書に戻ろう。ページをめくってみる。投げやりに指に力を入れ、めくるのを止める。他の項目はなく(真っ白だ)、「パイロット」という項目だけが見える。右のページの二段目の右端だ。他の項目は真っ白で、何ページかも書かれていないが、段を分ける線だけはある。「パイロット」の項目には、こう書いてある。
 

「君を生かせる何物かを探し続けても、それは、この砂漠の洞窟からは見つけ出せない。君の声を奪う人は地上の有り方を変えた人。未来に気をつけよ。砂漠は果てしなく続く。そして、そこに君の場所はない。ここを去られよ。空を飛ぶ物体に期待を賭けよ。」


 なんとも、まあ、わけのわからん。ドラゴンクエストじゃあるまいし。記憶は気まぐれなものだ。そして、体力や眠気も気まぐれであることには変わりない。次は「パイロット」から旅を続けることにして、今日はここまで。