ノイマンの夢・近代の欲望

佐藤俊樹ノイマンの夢・近代の欲望』講談社1996


1.

10年前に出版された本。産業社会に取って代わるかも、と主張したりする「情報化社会論」自体が近代産業社会の一部をなしている、というのが著者の言わん所。基本的に著者の立場に賛同。非常に丁寧に著者の立場を提示してくれている(即ち、見方を変えれば「くどい」と感じるかも)。技術決定論的な情報社会論が蔓延る風潮は、さすがにITバブル崩壊以降衰えたが、最近は「バイオ技術」や「脳科学」という形に姿を変えただけで、その流れはさほど変わっていないと思われる。言い換えれば、自動車産業の「モデル更新」とあまり変わらないのである。一言で言うと「技術決定論イデオロギーに過ぎず」。


2.

個人的に、情報技術論に関する内容よりは、「メタ自我」に関する内容の方に興味があって、この本を読んだ。技術決定論の立場から「自我の在り方がメディアの変容によって変わっていく」という主張が説得力を持つような風潮があるが、著者の立場から見るとそれは「幻覚」に過ぎなく、私も同じ立場である。

個人の自立性と相関するのは、音声か文字かではないし、もちろんメッセージの物理的な伝送速度でもない。そのメディアをどのように読むかという読み方なのである。 −86

「読み方」とは、結局社会的な使い方によるものである、ということだ。技術が自我や社会の在り方を変える独立変数として作用することはない。技術が持つ様々な可能性の内ある一つが社会的な要求によって現実化するのであり、もし、まるでテクノロジーが社会的な変化の原因のように現れるときは、まさにそれを社会が要求するからである。技術は社会の従属変数なのであって、決して独立変数ではない。


3.

最後に物足りないと感じたことを一つだけ指摘しておこう。佐藤は産業社会を特徴付けるメカニズムの一つとして「日常生活」を常に変えていく力を挙げながら、次のように論じている。

産業社会では日常生活と社会のしくみは絶対に一致しない。 −187

言わんとすることが理解できないわけではない。現実的な日常生活の具体的な変化が、社会的なメカニズム(ここでは「産業社会」)の変化として解釈されやすいが、そのような解釈は間違っている、ということであろう。目に見える日常の変化と、目に見えない社会構造の再生産が同時的に起こっているのも理解できる。しかし、ここでいう「日常生活」と「社会のしくみ」はどこまで厳密に区別できるものなのだろうか。そこの所をもっと詳しく知りたかった。はたして、「日常生活」と「社会のしくみ」とはどこまで乖離しているのだろうか。もし、乖離が甚だしいのなら、「日常生活」から距離をおいた観点でしか「社会のしくみ」は認知できないのではないのか?だとしたら、プラトンの洞窟の寓話から人類は一歩も外に出ていないのでは?ま、こんな疑問が頭をよぎる。