異者の変容、マルクスの悲劇


山口昌男の『文化と両義性』は境界、異者などが秩序と混沌を仲介して、秩序を活性化させるという主張の繰り返しで構成されている。僕の見解では、秩序が、自立的かつ内的に積み重ねられていく秩序内の問題群に、もはや耐えられない状態に陥ったとき、この異者を招き入れる面があるように思われる。つまり、秩序が変容の圧力から逃れられなくなったとき、変化の移植者として異者を必要とするのである。したがって、<秩序=不変>が正常で<混沌=変化>が例外的な世界において、異者もまた例外的=非日常的存在である。異者はあくまでも周縁的な位置を占めざるを得ないのだ。


しかし、変化が例外ではなく「日常的な営み」になってしまった近代においては、異者の地位にも変化が生じるようになる。周辺的な知識人、変わり者らが小説の主人公の大部分を占めるようになるのは、そのためなのではなかろうか。もしかしたら、小説という文学形式の普遍化自体が、異者の日常化を必要とする時代的要求によるものだったのかもしれない。世界は絶えず変化を求め、それに応じて異者もまた毎日のように呼び出される。変化が日常化した、自然化してしまった世界に新しい活力を吹き込めるのは「不変」である。不変な絶対へのノスタルジー。今度はこれが、変化を常態とした近代的日常を活性化するようになる。近代的世界における「ロマン主義」は、神話的世界における異者と同じ機能を担う。そして、変化をもたらす者としての異者は、辺境(周縁)から追い出され、中心に住まう者となる。



絶え間のない変化としての近代を捉えたのはマルクスであったが、それと同時に近代を新たな秩序として捉えたのもマルクスであった。彼は、この変化の王国を新たな階級秩序が再生産される世界として規定する。そして、彼はこの秩序の崩壊としての革命を願ったのだが、彼の意を継いだ群れは、あまりにも悲劇的にも、資本主義という秩序を活性化させる周縁としての役を演じてしまった。